2007.05.20.Sun

このトラファルガー劇場、ストレートプレイ専用のミニサイズで観客と舞台が近く、舞台は観客席の一番低いレベルに、台を乗せた高さしかない。
普通、舞台が高いか、客席が高いかの2タイプで死角を無くしているのがほとんどだと思うけど、今回は後者。
ともすれば、階段一段上るだけで、ひょいっと舞台の上に乗れちゃう。
実際お調子者のおっさんが乗って、注意されてたし(笑)
演出によって1幕の舞台上のセットが派手に崩れ、その瓦礫が舞台の脇に散乱している休憩時間。
メイン以外の若い俳優たちが、その瓦礫の山を片付けていく様がちょっと面白かった。
それも演出の一部なのね。役者さんも混じってたし。
本当に立派に瓦礫の山なのに、まぁ手際よく綺麗にするなぁと、半ば感心しながら観ていました。
片付けている一方で、動きには気を配って、しっかり演技してるんだよね。
重いものを2人で運ぶ時も私語や掛け声はなく、あくまで世界観を壊さないよう徹底。
そして2幕。
ホルストというピンクの星をつけた囚人と出会うマックス。
2人に与えられた仕事は、石を右から左、左に溜まったら今度は右へと運ぶ、ただそれだけの、意味もないもの。
体力と精神を磨耗するだけのその仕事の中で私語は禁じられていたが、2人はお互い向き合わず目を合わせずに、小声で会話を始め、やがて愛し合うようになる。
しかし同性愛が罪で捕まっているのに、その愛をカラダで表現するなどもってのほか。
そこで2人は言葉で性交するのです。
このシーンがまた、英語ネイティブだったら聞いてるだけで恥ずかしいかもしれないやり取りなのだが(日本語だったらなおさら?)、カミングのキャラだと、なぜかとても説得力があるのだ。
もともと悶える演技は得意のようだし(「キャバレー」参照)、だからといって俗っぽいかといったらそうでもなく、逆にとってもピュアな感じがするのね、彼の場合。
前半の賑やかさに比べ、後半は色も音もぐんと減った舞台上だけれど、だからこそセリフが主役となり、マックスやホルストの表情や仕草の1つ1つが際立ってくるよう。
意味のない労働によって、だんだん体力を蝕まれていくホルストは、最後には愛に応える気力もなくなってしまう。
そしてまたしてもマックスは、愛する人が死んでゆくのを目の前にしながら、何も出来ずにただそれを見ているだけ。
でも今回の彼は、ホルストの亡骸を抱きながら、ふと糸が切れたように冷静な表情を見せる。
我関せずを貫いてきた彼だけど、まるで引き寄せられるかのように(舞台前面にぴんと張っている)高圧電流の流れる有刺鉄線へと近づく。
そして、静かに両手で電線を掴む、と同時に暗転。
あまりにも音のない静かな結末に、逆に不意を突かれた観客が息を呑む音のほうが、劇場に大きく響いて。
その感覚がとても新鮮だった。
この舞台は、歴史的事実や社会的批判よりも、「愛」の姿を描いていると評されているけれど、そうすると何だかマックスの最後が陳腐になってしまう気がして、私にはやっぱり“マックス”という人間と人間関係の築き方だなぁ。
マックスの最後には色んな解釈が当てはまる気がする。
少なくともカミング版はそういう見せ方をしてくれたのではないかと。
悲しむでもなく、絶望するでもなく、気が触れたようにでも、夢遊病のようにでもなく、妙な落ち着きと共に、しっかりと高圧電流線を握り締める最後。
カーテンコールは一転、舞台上の雰囲気をあまり引きずらないのが欧米風?
晴れやかな表情で拍手に応える俳優たち。
客電が点いて眼にした光景は、舞台そのものと同じくらい印象に残っています。
隣りの隣りに座る女性が、ボロボロに泣き崩れていて、席から立てない状態だったこと。
舞台や映画を見て泣くことっていうのはそんなに珍しいものではないけれど、なんか「そんなもんじゃない」気がしたんだよね。
私自身、映画では頻繁に、舞台では「ビリー・エリオット」で唯一泣いたけど、その涙とは全く違うもののような。
ビリエリの時は「泣け」と言われて泣いたけど、この舞台は「泣くな」と言っていて、それでも垣根を越えて溢れてしまったもの、というか。
だからもう、ぐしゃぐしゃに号泣していて、綺麗な一筋の涙なんかじゃなかったもん。
蜷川幸雄の「タンゴ・冬の終わりに」のイギリス公演で、同じく客席に最後まで残って、立てなくなっていた女性が居たという逸話があったけど、あるんだね、そういうこと。
今まで観た舞台の中で、もしかすると一番舞台の力の凄さというものを感じた作品かもしれない。







